スーシティ(英:Sioux City、発音:ˌsuːˈsɪti/)は、アメリカ合衆国アイオワ州西部のプリマス郡とウッドベリー郡に跨る都市である。意味は「スー族の街」である。2000年の国勢調査で人口は85,013人だった。2010年国勢調査ではやや減少して82,684人となっている[1]。 スーシティはアイオワ州・ネブラスカ州・サウスダコタ州に跨ったスーシティ4郡から成るスーシティ都市圏の主要都市であり、都市圏人口は2000年に143,053人、2008年は幾分増加して143,157人と推計されている。アイオワ州・ネブラスカ州・サウスダコタ州に跨るスーシティ・バーミリオン合同統計地域(Sioux City–Vermillion Combined Statistical Area (CSA))は2008年の推計人口が156,762人である。スーシティはその市域の大半が入っているウッドベリー郡の郡庁所在地である。
スーシティはミズーリ川の航行可能な上限に位置し、オマハ・カウンシルブラフ都市圏から北に約90マイル (144 km) にある。スーシティとアイオワ州北西部の周辺地域、ネブラスカ州北東部およびサウスダコタ州南東部は、特に地元のメディアからスーランドと呼ばれることがある。サウスダコタ州・アイオワ州・ミネソタ州・ネブラスカ州に跨り人口1,043,450人を抱えるスーフォールズ・スーシティ指定商業圏では2番目に大きな都市である[2]。
スーシティには、モーニングサイド・カレッジ、ブライアー・クリフ大学、セントルークス・カレッジおよび西アイオワ技術コミュニティカレッジがある。
2005年、スーシティは「アイオワ州のすばらしい場所」(Iowa Great Places)登録が創設された際、クーンラピッズやクリントンと一緒に最初に指定された一つになった。
2009年3月、スーシティ都市圏はSite Selection Magazineによって、アメリカ合衆国の人口5万人から20万人までの社会の中で、経済発展第1位の地域社会として認められた。スーシティ都市圏は2008年のSite Selection magazine でも同じ位置にランクされた。
州間高速道路29号線はスーシティと周辺部の主要高規格道路である。南のオマハ方面から市に近付き、中心街近くでミズーリ川にそって北西に曲がっている。続いてサウスダコタ州に入り、北に転じてスーフォールズに向かっている。
現在スーシティとなっている地域には、スペインやフランスの探検家が現れるまでの数千年間、インディアン民族が住んでいた。18世紀、スペインやフランスの毛皮罠猟師がミズーリ川に現れるようになった。1803年、トーマス・ジェファーソン大統領のときに、フランスが北アメリカ大陸中央部の広大な地域をアメリカ合衆国に売却した。この「ルイジアナ買収」地域の大半がまだ探検も成されていない土地だった。スーシティが初めて文書に記されたのは、ジェファーソンが科学調査をするために派遣したルイス・クラーク探検隊の報告書にある。1804年、この探検隊はミズーリ川を遡り、スーシティとなる場所近くでキャンプを張った。8月20日、遠征隊員の1人、チャールズ・フロイド軍曹が疝痛で死に、川を見下ろすフロイドの崖に� � �葬された。ルイスとクラークの当時、オマハ族インディアンがこの地域から下流に居住し、上流にはヤンクトン・スー族(ダコタ族)がいた。ウィリアム・トンプソンが1848年にフロイズブラフ近くに交易基地を設立し、都市を建設する野望をもっていた。しかしトンプソンの期待が実現することは無かった。さらに上流のフロイド川とビッグスー川の間の開拓者が先に成功した。
[編集] 開拓と設立
フランス系カナダ人の毛皮交易業者セオファイル・ブルギエが、スーシティとなった土地に最初に入った白人開拓者だと考えられている。ある伝説に拠れば、ブルギエは友人であるヤンクトン・スー族のワンブリ・オキサイズ(ウォーイーグル)酋長に高い崖近くで2つの川が合流する肥沃な土地に関する夢を語った。ウォーイーグル酋長はビッグスー川河口近くにそのような土地を知っていると告げた。ブルギエはアメリカ毛皮会社の代理人として、ダコタ準州のピエール砦とミズーリ州のセントルイスの間を何度も旅する間に、既にその場所を通ったことがあった。1849年、ブルギエはまさにその土地に自分の農場を設立した。この農場にはウォーイーグル酋長の家族が使うウィグワムやティピーがあった。ブルギエは東はビッグスー� � �河口からミズーリ川に沿ってフロイド川近くまでの土地全ての所有権を主張した。1852年、ブルギエは東はペリー・クリークからフロイド川までの土地をジョセフ・レオーネに売却した。その頃ブルギエはカウンシルブラフ(当時はケインズビル)の毛皮交易用具商、ジェイムズ・A・ジャクソンに上流に来て交易基地を設立するよう奨励していた。ジャクソンはその義父であるジョン・K・クック博士に未来の都市としてその地域の可能性を説いた。イギリス生まれでオックスフォード大学で教育を受けた医者であるクックは辺境での測量士に転身していたが、ビッグスー川とフロイド川がミズーリ川に注ぐ土地に大変に感銘を受けた。クックはアメリカ合衆国連邦政府の測量士としての公的役職を活かし、1854年にスーシティという小さな � �を設立し、街区や通りを仕切った。中心街となった土地の多くを所有していたジョセフ・レオーネはそれを激しい価格交渉の末に、クック博士に3,000ドルで売却した。それから3年以内に町の人口は400人となり、市制を布いた。
[編集] 19世紀
1856年6月にプレファブの家屋や食料を積んだ最初の蒸気船がセントルイスから到着した。
移民の増加に従い、この地に先住するインディアン部族はアメリカ連邦政府によって、遠方の保留地に強制移住させられた。インディアンたちを立ち退かせたあとに、鉄道が1868年に敷かれた。この頃小さな工場が幾つか開設された。1873年、ジェイムズ・ブージが初めて大規模な食肉加工工場を開設し、1884年に家畜飼育場を開設することに繋がる需要を創設した。およそ1880年から1890年に至る期間はスーシティの発展史でも最も急速で重要な進展が見られた。1880年のスーシティの人口は7,500人だった。1884年に15,514人となり、1886年に22,358人、1887年に30,482人、そして1890年には38,700人にまで膨れた。路面電車、水道、電灯などの改良が行われた、工場、労働者用住宅、食肉加工場、小売店、および鉄道が次第に登場した。市内の建設ブームに� �� ��架鉄道[3]や初期の「摩天楼」が拍車を掛けた。これらの変化は特に小さな開拓地が繁栄する中心都市に変わっていくという全国的に起こっていた成長を写していた。グロバー・クリーブランド大統領が1887年にスーシティを訪問した。
1892年5月、激しい雨がフロイド川の水嵩を増し、泥混じりの破壊的な波が備えのない市中を襲った。少なくとも3,000人が家を失った。家畜飼育場と鉄道の線路が大きな被害を受け、木材置き場は火事になった。アメリカ陸軍工兵司令部に拠れば、溺死した者は25人に上った。
1893年の全国的金融危機により、スーシティの多くの不動産投機家と起業家が莫大な資産を失うことになった。モーニングサイドの開発者で発注者でもあったエドウィン・ピーターズは資産150万ドルを失い、借金7,000ドルが残っただけと言われた。
1898年、アイオワ州兵の全部隊、すなわち第49、第50、第51、第52歩兵連隊と砲兵隊および騎兵隊は米西戦争のために現役任務として招集された。第49および第50歩兵連隊は南フロリダまで行ったが、キューバまで渡ることは無かった。第51歩兵連隊はフィリピンに送られ現地での戦闘に参戦した。第52歩兵連隊は州内に留まった。
[編集] 20世紀
20世紀が始まった時のスーシティ人口は33,000人だった。
[編集] 1900年-1910年
[編集] フロイド記念碑
1900年、ミズーリ川を見晴らす高い崖上に、チャールズ・フロイド軍曹の埋葬地を記す高さ100フィート (30 m) のフロイド記念碑の建設が始まった。フロイドは1804年のルイス・クラーク探検隊でこの地域を探検しているときに、この記念碑近くで死んだ。1901年に完工した記念碑は、後の1960年にアメリカ合衆国内務省によって最初のアメリカ合衆国国定歴史建造物の1つに登録された。
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[編集] ジョン・パース
1900年、スーシティやこの国の他の地域は元スーシティの土地投機家、開発者および後の悪名高い策略家ジョン・パースによって実行された詐欺の犠牲者となった。ジョン・パースは華々しい変化に富んだ人物であり、南北戦争で負傷し勲章を授与された北軍退役軍人でもあり、19世紀に起こったスーシティ勃興の主要な促進者だった。かなり最近まで、スーシティの歴史家達と市民指導者達は、スーシティの特に最も繁華な通りがその名前を冠しているノースサイドの発展に貢献したと思われるその時代に高い評価をしていた。ごく最近の調査によって結局パースは犯罪を見つからずにやってのける大変ずる賢い悪党だということを示した。パースは他の多くの実業家と同様、1893年の金融恐慌で大変な損失を出していた。スーシティの指 導的実業家の大半が負債を償還するために真面目に働いて再建を進めている間に、パースはアメリカ合衆国西海岸への移転を実行するために必要な資金を大衆から騙し取る計画を始めていた。1900年、パースはノースサイドにあった邸宅(後にスーシティ博物館になった)を処分するために全国的宝くじ始めた。約4万枚の籤が1枚1ドルで売られた。抽選は1900年クリスマスイブにユニオンの乗客発着場で行われた。最初に当選者はアイオワ州ビントンの宝石商だと宣言された。しかし数日後、当選籤はニューヨークの百万長者ウィリアム・バーバーが持っていることが明らかになった(パースはバーバーに対して大きな負債を負っていた)。パース邸の概要については、所有権譲渡証書が抽選の9日「前」、バーバーが当選籤を持っていると公 � ��知られた19日前にバーバーに渡っていた。バーバーは直ぐに、コンビネーション・ブリッジを運営している会社が発行する債券と引き換えに、ウィリアム・ゴードンにその邸宅を売却した。パースは確かに派手な存在だったが、西部に向かって旅立つ前に新聞にスーシティに対する感傷的な告別の辞を載せ、おそらくはその地域社会における正直なイメージを確固たるものにするよう仕組んだ。パースは持っている金を掻き集めて、スーシティから永久に消えた。かくしてスーシティはその最も繁華な通りにペテン師に因んだ名前を付け、その邸宅だった所は市立博物館として機能するという怪しげな特徴を持つところとなった。
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