ジレンマ。 (05.11.2009) |
ドイツに住むある知人から、「日本政府はこれまでの移民体制を見直すため、ドイツに研究者を派遣している。」と聞いて、少なからず不安になった。明治維新の際、民主主義を取り入れている米国のシステムを嫌って、日本統治に都合のいいドイツ(プロイセン)のシステムを導入すべく、研究者を派遣したのは、ご存知の通り。しかし今日の視点で歴史を見れば、これがその後の「破綻の始まり」であった。権威に対して批判を一切許さないそのシステムは、国民から批判能力を奪い、「右向け右!」で破滅まで突っ走る事を可能にした。「本国」ドイツでは、明治憲法が日本で導入されてから30年も経たないで、最初に破滅を迎えたが、日本ではこのシステムは生存を続け、本家ドイツよりも30年近くも長生きしたが、結果は同じ� ��うに破滅だった。今思えば、時代遅れのドイツのシステムを導入しないで、米国の民主主義を形だけでも導入していたら、その後の歴史の流れは変わっていたかもしれない。
ドイツ人は第二次大戦中の外国人(ユダヤ人、ジプシー、ロシア人、ポーランド人)の大量殺害で、「外国人とはうまくやっていく才能がない。」事がわかっていい筈だった。ところがこの外国人殺害を、「悪いのはドイツ人じゃない。ナチスだ。」と、(都合の悪い事はすべいて)ナチスの責任にした為に、自身の度量を過大評価してしまった。この為、60年代の経済復興で労働者が足らなくなると、「外国人労働者を使おう。」と安易な決断をした。又、第二次大戦中の「失敗」もあり、外国で虐待されている人がいれば、これを積極的に受け入れて、かって の汚名挽回に勤めた。その努力は認めるが、やりすぎた。見境なく外国人を受け入れてしまった為、80年代に入ってやっと規制を始めたが、ドイツに住んでいる外国人(旅行者、帰化した者などは含まない)は、ちゃんと登録されている数だけで7百万人近くに昇ってしまった。これは大雑把に言えば、10人ドイツ人が集まれば、1人は外国人となる。これでは実感がわかないので身近な例を挙げると、埼玉県の人口はちょうど7百万なので、ドイツに住む外国人を全部集めれば、埼玉県人が全部、外国人という事になるから、どのくらい外国人が多いかよくわかると思う。さらにドイツの人口は日本よりも30%以上少ない事を考えれば、外国人の比率は日本とは比較にならないほど高い。
不法移民は強制送還されるべき
外国人の内訳を挙げてみれば、最多の外国人はトルコ人で180万人も居て、その内、130万人がベルリンに住んでいる。ちなみにイスタンブールの人口が110万人だから、ベルリンがこっそりと「第二(それとも第一?)のイスタンブール。」と呼ばれるのもよくわかる。トルコに次ぐ外国人グループは旧ユーゴ、イタリア、ポーランド、ギリシャ、、となっている。旧ユーゴからの移民が多いのは、ユーゴの内戦の際に、すでに外国人で「パンパン」になっているのに、ドイツ政府が数多くの難民を受け入れたからである。この点でも、「ドイツ政府は偉い。」と素直にその功績を認めたい。その他のイタリア、ギリシャ、トルコは単純労働者としてドイツに働き� �来る国の代表例であった。(ポーランド人は、日本の朝鮮人と似たような状況がある。)ところで、話は横にそれてしまうが、ドイツに一番多く住んでいるアジア人は、どこの国籍か想像がつくだろうか?答えを聞くと「成る程。」と反応される方が大半だろうが、一番多いのはベトナム人で、9万人と郡を抜いている。(言うまでもなくベトナム戦争の難民。)ベトナムに次ぐのは、その宿命の敵、中国である。面白い事に、3番目がタイ国籍で5万人近くも居る。これまでドイツでタイの男性に出会った事がないので、ほとんど女性だと思われる。ちなみに日本人はドイツ全土で3万人住んでおり、インド人、スリランカ人よりも数が少なく、少数派の外国人だ。
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70年代のオイルショック後に長い不景気がやってくると、ドイツ人失業者の数が飛躍的に増加したが、政府は相変わらず外国人労働者を受け入れていたので、失業者の怒りの矛先は外国人に向けられた。するとこれまでは気になっても、見えない振りをしていた点が誇張されて見られるようになった。言葉、慣習、そして宗教である。単純労働者に仕事をしながら「ドイツ語をマスターせよ。」というのは、無理なので、これまでは外国人労働者がトルコ語やその他の言語で話すのを寛容してきたが、次第に、「ドイツに10年も住んでいるのに、何でドイツ語ができないんだ。」と、態度が変わってきた。労働者は男性ばかりたったので、慣習の違いはそれほど気にならなかったが、労働者がトルコの田舎からトルコ人女性を� ��び寄せて結婚すると、イスラム教独特の女性の「服装」が気になったが、我慢した。ドイツに働きに来る労働者に、「ドイツに来るのだから、キリスト教に改宗しなさい。」というのは、言いすぎだと思ったからだ。しかし、この「不満」は心の深い部分でくすぶり続けた。著者がドイツにやってきた90年代、ドイツ人家庭の一部屋を借りて生活していたが、「イスラム教徒の女性が身に着けているKopftuchは、許せない性差別だ!」と、ドイツ人女性は、イスラム教、あるいはイスラム教徒の男性に、敵愾心を抱えていた。が、これを表立って非難する事は、良識のあるドイツ人は避けた。
こうしてトルコ人が集中して住んでいる地区は、ドイツ語ではなくトルコ語が第一言語となって、先住民であるドイツ人を圧倒するようになった 。さらにはイスラム教寺院が次々に建設され、イスラムの装束をまとった人々が路上にあふれ、トルコ人VSアラブ人マフィアの権力抗争で治安が悪くなると、ドイツ人がこの地区から逃げ出し始めた。そうなると当然、家賃が低下する。これを幸いに、その後にトルコ人、アラブ人が大挙してやってきて、この傾向にはさらに拍車がかかった。こうして、ベルリンのNeukoeln地区はいい意味で言えば、さまざまな文化の交流地、悪い言葉で言えば、第二のイスタンブールとなった。
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この状況を見て、ドイツ政府は遅ればせながら外国人の流入をストップすべく法律の改正を始めたが、法律の抜け穴を利用してドイツの社会保障制度を目当てにドイツにやってくる外国人が後を断たなかった。さらには60年代にやってきた初代の単純労働者の子供がドイツで育ったにもかかわらずドイツ語をうまく話せず、学校で落第、やる気もないので学校退学後、生活保護を受けて生活していると、外国人に対するドイツ人の寛容さもその限界を迎えた。例えばドイツ全土では生活保護を受ける家庭の割合は20%程度なのに、Neukoeln地区では50%を超えており、ベルリン市の破産の原因のひとつになっている。つまり、ドイツの経済発展を助けるべくドイツに� �かえた外国人が、ドイツの発展の足手まといになり始めたのである。(少なくとも、ドイツ人にはそう思えた。)かと言って、これまでドイツの高度成長を助けてくれた外国人に、「用が済んだので、出て行ってください。」と言うのでは、あまりに「お調子」がよく、過去の失敗の手前もあって、言いたい言葉を飲み込んだ。ネオナチなど教養のないドイツ人は、「外国人、出て行け!」と平気で言っているが、知識人はこれが言えない。これをやってしまうと、「ドイツ人は今も昔も外国人が嫌い。」さらには、「ドイツ人は、今も昔も変わっていない。」というテーゼを証明しかねないからだ。こうして誰もが心の中では感じているのに、公然と心中を吐露できないというジレンマに陥った。(ナチスは第一次大戦後、このジレンマ を利用、ベルサイユ上条約の不平等を公然と主張して、ドイツ人の歓心を得た。)
言いたい事を我慢するのは、あまり体によくないので、時々、ガス抜きをする必要がある。そうしないと大爆発してしまう。そのガス抜きをしてくれたのが、かってのベルリン市の財務官で今、ドイツ中央銀行の取締役員のSarrazin氏だ。氏は、「ベルリンは、ベルリン市民(案にトルコ人を指す)によって救われる事はないし、ベルリンが(往々にしてトルコ人が経営してる)インビス(立ち食い店)から得る物もない。大体、トルコ人の70%、アラブ人の80%はドイツに帰化することを拒絶している。」と、これまでは知識階級が言いたくても言えない事をずばりと言ってしまった。勿論、トルコ人、アラブ人団体を言うに及ばず、ユダヤ人団体まで、 外国人団体は赤い布を見た闘牛のように、Sarrazin氏に突進したが、ドイツの知識階級の反応は非常に面白いものだった。「氏の言い方は間違っているが、本質は誤っていないかもしれない。」というものであった。
例えば同じ外国人でもアジア人は、ドイツに帰化しようと努力をする。上述のベトナム人の例を挙げてみれば、ドイツに住んでいるベトナム人生徒の半数以上は大学まで行く。その結果、ドイツの社会で重要なポジションに就いているアジア人を見れば、通常はベトナム人である。いい例が、今回、厚生大臣に就任したDr.Roesler氏だ。氏はベトナム戦争で両親を無くし、孤児という逆境にも負けず努力を重ね、ドイツ軍の将校育成制度を利用して医学を勉強、軍医になり、そして今回、ドイツ史上最年少の36歳で厚生大臣にまでなった人物である。これに比して、ドイツに住む外国人の最大派閥を構成するトルコ人では、大学まで行く生徒は10%にも満たない。これに加えて、国は外国人の帰化� �容易にするために、「無料のドイツ語コース」を提供しているが、トルコ人、アラブ人はコースへの参加を拒否している。早い話、やる気が全くない。こうした状況を見る限り、Sarrazin氏の言い分は必ずしも的外れではない。もうちょっと上品に言えばよかったのかもしれないが、上品に言えば、「効果」を失う。あるいは、氏のベルリンでの経験がこれを許さなかったのかもしれない。
つまる所、ドイツの移民政策は、「こうしてはいけませんよ。」という見事な失敗例である。スイスやシンガポールはもっと賢い移民政策を採用しているのに、日本政府がよりによってドイツの移民政策に興味を寄せている理由がわからない。ドイツには日本よりも優れているシステム、報道(メデイア)、民主主義、社会保障など、は、たくさんあるが、この移民政策は別物。今、世界各国からソマリア沖に海軍の舟艇を派遣して、海賊からの攻撃の撃退に当たらせているが、ドイツ海軍には、「海賊を捕らえてはならない。」という厳命が行き届いている。何故だからおわかりだろうか?ひっ捕らえた海賊が、ドイツの艦船に上がってくるなり、「政治亡命」を要請してくるのを恐れてい� ��からである。ドイツの法律では、政治亡命を希望する者は(あきらかに政治亡命者でなくても)、政治亡命を与えられるかどうか、審査を受ける権利がある。「お前、海賊だろう!?亡命なんかできるか。」とやると法律違反になるので、わざわざドイツまで連れ帰って、宿舎(監獄ではない)に入れて、お金をかけて審査をしなくてはならない。この審査中にこの政治亡命者が教会に逃げ込み、「教会亡命」をすると「お手上げ」で、また移民が出来てしまう事になる。だからドイツ海軍は海賊を捕らえない様に厳命しているのである。日本は、この前、ドイツの真似をして大火傷を負った。これに懲りて、今回は是非、他の国の真似をして欲しいと切に思うのだが、あの研究員は何を報告したのだろう。とても不安である。
今回のようなコラムを書くと、「トルコ人は、、。」、あるいは「ベトナム人は、、。」となんでも十把一からげにされてしまう危険があるので、一言。ドイツにはトルコ人の医師、弁護士、国会議員だって居る。その逆にベトナムマフィアは凶暴で情け容赦なく、恐れられている。ドイツの中華料理屋は往々にして所有者はベトナム人であるが、これは途中でオーナーが「変わった」為である。レストランの「売却」を断ると、ベトナムマフィアの訪問があり、この時点で所有者が変わる。フライブルクのミュンスターの横にあった中華料理屋のオーナーは、著者がフライブルクに留学中に姿を消し、未だにその行方がわかっていない。
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